希(まれ)の父親・徹が、揚げ浜式製塩法の職人・元治に弟子入り

希(まれ)の父親・徹(大泉洋)は、いつものように塩作りで金儲けをしようとたくらみ、希(まれ)に「お父さん、きらい!」と言われてしょげ込んだ。
その後、一念発起して、地道にこつこつと塩作りに励もうと決意して、塩作り職人・桶作元治(田中泯)に弟子入り志願する。
元治は、徹に、「しお汲み3年、しお撒き10年」と諭す。
揚げ浜式製塩法、希(まれ)
元治の塩作りは、「揚げ浜式」製塩法といわれ、石川県珠洲市に日本で唯一残された製塩法であり、約500年前とほとんど同じ方法で作られている。

「揚げ浜式製塩法」とは、平安時代の終わりから江戸時代にかけて行われた製塩方法。
当時土木技術が未発達だったため、塩田は海岸より高いところにしか作れなかった。手法としては、塩田の表面に粘土を敷きつめ、その上に砂を撒く。そして海岸で桶に海水を汲んで、塩田まで運び散布し、蒸発を促進させるために再び砂を攪拌(かくはん)してやる。  散布・攪拌を繰り返し、風と太陽の力で砂を乾燥させる。充分塩分が付着した砂を沼井(ぬい)に集め、海水をかけて砂の表面の塩分を洗い落してやると、濃い海水ができあがる。この濃い海水を鉄釜や石釜に入れ、煮詰めて塩を結晶させるという手法である

(引用 http://www.agehama.com/history.shtml#02)


加賀藩三代藩主前日利常公の時代から、製塩が奨励され、能登の国に水を前貸しして塩を作らせたと言われる。前貸しした水のかわりに塩を返納させるやり方をとり、その後塩の専売制に移り、加賀藩の在世を潤した。いわゆる「塩手米制度」である。

加賀藩が珠洲の塩に力を入れ、盛んになった要因として、以下がある。
1.燃料が手にいれやすかった事
2.内浦の海岸は、砂浜が多く、塩田をつくりやすかった事
3.外浦の海岸は、磯浜で塩田を作るのには苦労が多かったが、日照時間が長い利点があった事
4.大きな川がなく、海水の塩分が濃い事
5.水田が少ないので米の生産が十分ではないが、米にかわる他の生産がない事
*「能登の揚浜式製塩技術」は、平成20年3月13日 国の重要無形民俗文化財に指定される。

(引用 http://www.agehama.com/history.shtml#02)

こういう歴史と伝統のある古式の製塩法に、心を入れ替えた(?)徹が、どこまで根をあげずに続けられるか、今後の見所である。